二元論
大航海時代に地球がつながると、
それぞれが絶対的な断片だったいくつもの世界がつながり始めた。
つながると、複数の絶対があることに、サピエンスは気づいた。
そうしてみんな、考えるようになった。「絶対とはなんぞや?」
朧げながらそんなことを考えていたサピエンスは、やがて「絶対」のほつれに気づき始める。
自我を発見したデカルト、神を相対化したスピノザ。
デカルトのロジックを断罪したヒューム、デカルトとヒュームを超克しようとしたカント。
ほつれだしたら止まらない。ヘーゲル、ハイデガー、サルトル、レヴィ・ストロース・・・・
まるで、グリニッジの時計の針に合わせて思考を巡らせねばらなないかのように、
ほつれた糸は慌ただしく、いくつもの糸玉を編み上げていく。
パルメニデスやアナクシマンドロスが世界について思考していた頃にはなかった「時間」というものさし。
糸玉の大きさを比較する基準を感じる認知はあっただろうとは思うけれども、
それを編み上げるスピードという基準が知覚されることはなかったのだろうと、思う。
なぜなら、この物差しの本質は「実体」ではなく「効率」だから。
「効率」という物差しは、「比較」という前提思考があって初めて存在する相対的なもの。
相対的であるということは、ものすごく乱暴に言ってしまえば「どっちでもいい」ということだ。
絶対的な答えがないということだ。つまりそこには、正解も間違いもない。
でも、そうなると今までは「絶対」という有無を言わせぬ物差しがあって罷り通ってきた世界が窮地に陥る。
世界が一つであった頃は良かった。
でも、複数の世界の存在を知ってしまったサピエンスは、色々なかたちの物差しがあることを「知ってしまった」のだ。
それゆえ、どの世界が「一番良いのか」という正当性を示さなければならなくなってしまったのだ。
この瞬間、サピエンスの拠り所は信仰から情報に変わった。
そして、世界は、サピエンスが信じるものから、サピエンスが証明できるものに変化した。
証明するとは、筋が通っているということだ。
筋が通っているということは、反証可能性はありつつも反論できないということだ。
反論できないものを、人間は正しいと認知する。
こうして、正しいという指標が生まれた。
そうして、対局には間違いという指標が生まれた。
直感と信仰で描かれていた世界は、正しいか間違いかいう絵筆でスケッチされる世界に変わった。
その結果として、
根拠のないインスピレーションに基づく直感的ブリコラージュが存在し得た社会は、
筋の通ったエビデンスに基づく論理的エンジニアリング以外の存在を弾劾する社会へと変貌した。
そして我々は今、論理的エンジニアリングの井戸の中で、そのグローバルな井戸という存在を信じて、効率的な世界最大幸福を模索している。この井戸の外側の存在を見ないふりして。
でも、長らく井蛙の暮らしをしてきたサピエンスは、鈍感ながらも感じている。
この井戸の中で基準となっているロジックが途方もなく脆弱だということを。
このロジックがエビデンスとしている客観的事実というものが、現代社会の物差しで過去の時代を眺めたスケールに過ぎないということを。
確かに情報は、きわめてコスパが良い。
なぜなら、「正しいか、間違っているか」という二者択一で世界を描くことができるから。
この二者択一は決して荒唐無稽な独断的なものではなく、極めてロジカルであり属人性を剥がした客観的規範としての地位を獲得しうるものだ。だから近代化する日本には驚くほど容易にインストールされることになった。
でも、その情報の外側にある世界を、その情報それ自体は反証することはできない、永遠に。
なぜなら、反証するものさしそのものを持ち得ないから。
だからと言って、反証可能性の埒外で声高に叫んでいるだけでは、結局は中世の宗教社会と本質的には変わらないことになる。
この本質が変わらない限り、どんなに二者択一以外の世界が認知されたとしても、本質的には変わらないと感じる。
なぜなら、ホピ族とかピダハンとか、そのロジックからこぼれ落ちる地球人は、「原住民、未開人」みたいなラベリングをされて、この二元論的思考の範疇に取り込まれてゆくから。
僕は、この極めて合理的で効率的な二元論は諸刃の剣だと感じている。
でも、ちゃんとその刀の鋒を観察すると、そこに時間軸が1mmも存在していないことに気づく、ちゃんと。
それはつまり、諸刃の剣ではないということ。
と同時に、まったくもって合理的でも効率的でもないということ。
ここまでくると、二元論の土台がみるみる揺らいでいくのを実感する。
良いとか悪いとか、正しいとか間違いとかは、実は「たわいもないこと」だということを実感する。
そう、皮肉なことに。
ロジックを突き詰めれば突き詰めるほど、二元論の脆弱性を否応なしに感じるのです。
そうして結局、ロジックを突き詰めた先には、直感があるという事実に戻るのです。