自己と他者

養老さん曰く

「死は自分にはない。他人にある」

これはすごく良く分かる。

 

自分が死んだという「事象」は、それを知覚する「他者という存在によって」認知される。

この他者の意識に上ることで、自己の死という「現象」となる。

つまり、自己の死は他者評価によって存在している。

よって、知覚できる「自分」という事象は「自己の生」という現象しかない。

 

じゃあ、自己と他者の境界はどこにあるのだろうか。

自分は「自己」をどのように知覚しているのだろうか。

そんなことをふと思ったので、ちょっと思考実験してみることにした。

 

唯一神という概念がインストールされる以前の社会では、自分の境界は個体の境界ではなかったように、思う。

自分が属する共同体という範囲にあったように、思う。

だから、自分は「自己」として完結する必要がなかったんだろうな。

自己と他者は、もっと曖昧につながっていたんだろうな。

 

唯一神という概念がインストールされた以降の社会になると、「神を認識する私」という意識が発生して、その認識の仕方にバリエーションがあることを知るようになる。

そのバリエーションという境界によって、自己の境界範囲が共同体から個体に近づいてきたように、思う。

 

やがて認識の仕方の数だけ神のバリエーションも増えたのだけれども、

「唯一神」という概念をインストールしているから、それ以前の「多神」の概念には戻ることはなかった。

多神に戻らずに、どれが本当の唯一神かという概念を作り出したんだろうな。

そして、その概念の中で神を比較するようになったんだろうな。

比較すると優劣が生まれる。それで正統とか異端とかいう概念が出てくる。

 

「あれ、おかしいな。唯一神とは絶対的存在だと思ったのに、なんか相対化できちゃってるな。」

そんな風に人々が考え出すようになって、神が死にかけると同時に、「神を認識する私」という知覚フレームの中にも空白ができてしまったんじゃないかな。

デカルトはその空白を埋めようと、うんうん唸って「我」を見出したんだろうな。

そうして「神を認識する私」というフレームが存続するようにアップデートしたかったんだと、思う。

 

でも、デカルトの思考は「我」だけでなく「我の認識の仕方」という思考構造もまた作り出したみたい。

そんな思考構造は「神を認識する私」という個別具体的なフレーム思考以外にも社会現象全体に適用されるようになっていった。

そうして、認識という概念の重心が、認識する対象(神)から認識する主体(自己)へと移っていったから、ニーチェは「神は死んだ」と宣言したんじゃないかな。

  

この神の相対化は、「神」と「科学」という概念を同じ俎上で比較するという思考構造によって生まれた。

そしてこの比較の物差しに使われるようになったのが、科学の根拠に使われる数値化。

数値化という明確な比較がしやすい指標によって、ものごとの優劣が定量的に評価されるようになっていくと、人々は指標の精度を上げるように技術を磨くようになった。

そしていつしか、その技術の精度が比較の対象になっていった。

技術の精度が上がると、指標の精度もあがる。

人々はこれを「進歩」と呼んだ。精度が高まることが「良いこと」だという概念が生まれた。

 

こうして、評価が数値化され、その精度が高まるにつれて、境界線の解像度がくっきりしていく。

線はどんどん細くなって幅がなくなり、遊びや余白がなくなっていく。

 

遊びや余白とは、「これだ」と数値化できないもの。

評価の対象になり得ないもの。

数値化できる対象が増えるにつれて、「評価の埒外にあること」が、いつのまにか「良くないこと」という評価をされるようになった。

「良くないこと」と評価されないようにという救済のつもりで、社会もまた「自分の立ち位置やスタンスをはっきりさせること」を求めるようになっていった。

「あなたはどっち側なんですか」というように。

 

でも、そもそも「どっち側」という物差しで測り得ないものには、「どっち側か」という事象自体が存在しない。

だけれども、社会がそれじゃあ許してくれない。

「自分はここだよ」という世界座標のマッピングだけでは、自己の定義として不十分だというわけだ。

「自分はこうだよ」という自己評価だけでは、存在できないのだ。

座標の表明をしただけで、よく見えない境界線の「どっち側か」という他者評価付きの存在となるのだ。

 

自分の存在が他者の評価によって形成されうるという概念は、アイデンティティの形成にも影響を及ぼす。

いわゆる「自分探しの旅」というのが流行した頃があるが、

これはアイデンティティの不在というのが「良くないこと」のように社会が感じていたからだろう。

でもみんながみんな旅に出られるわけもないので、今度は「もともと特別なオンリーワン」という処方箋も施されるようになった。

 

養老さん曰く

「自分探しは根本的に不毛です」

おっしゃる通りだなと、思う。

 

「自分探し」も「オンリーワン」も本質は他者評価だから。

自己評価を高めているつもりで、他者評価に依存するようになっているから。

だから養老さんは不毛だと言ったのだろう。

不毛と言って突き放しているのではないと思う。思考停止の始まりですよ、と静かに伝えているのだと思う。

大雑把にこんな流れを100年くらいやってきての現代。

さらに便利になったツールを駆使して自己表現が自由自在にできる社会になったけれども、

その内実は、100年前から変わらずに、他者に「いいね」してもらうための手段になっている気がします。

 

「いいね」してもらって自己と他者を区別するよりも、

「いいな」という共感が浸透していったらいいなと、思う。