考えているとき、ぼくは何を考えているのか

 

考えているとき ぼくは何を考えているのかを考えてみた

 

たとえば家を考えるとき

ぼくは小人になる。

 

目の前には、少し前にぼくが引いた朧げな線の集合体があって

その集合体が脳内にミラーリングされると同時に

小人のぼくはその集合体の住人になる。

 

そこでぼくは 歩いたり 座ったり 寝転んだりして

いくつもの「へり」を感じながら、朧げだった集合体が鮮明になっていくのを感じる。

鮮明になってきた集合体が、空間。

だからぼくはその空間の部位に名前をつける。

「床」とか「壁」とか「天井」とか。

「窓」とか「机」とか「椅子」とか。

 

でも、そうやって命名するのが、なんだかしっくりこないのだ。

名前をつけた途端に、その「へり」が固まってしまうように感じて、気持ち悪いのだ。

 

もちろん、床だって壁だって天井だって、窓だって机だって椅子だって、

ぶよぶよもしていなければ、どろどろもしていない、固形物だ。

固まっていて当然のもの、だってそこが空間の境界なのだから。

 

でも、小人のぼくにとっては、そこは空間の境界である以前に、ぼくの境界でもあるのだ。

つまり、「集合体のへり」とは「ぼくのへり」なのだ。

 

小人のぼくは、

「へり」を感じる時に「ぼく」を感じ、

「へり」を感じる場所に「ぼく」を感じる。

これはつまり、

「ぼく」という概念を時と場所に照射して、跳ね返ってくる知覚を束ねているようなもの。

 

この知覚の束の変化量が、僕の知覚の濃淡として感じられるとき、僕は「固まらない境界」を感じることができる。

 

そう、だから。

ぼくは空間を考えているとき、空間を固定化することは考えていないのだ。

知覚の束がゆらゆらと変化し、その濃淡を味わうことができるような、そんな「固まらない境界」を考えているのだ。

 

それをぼくは「場」と呼ぶ。

ぼくは空間が場になるような、そんな「へり」をいつもゆらゆらと考えている。