絶対と相対

絶対とは、比較なしに存在し得るのだろうか

相対とは、比較だけで成立し得るのだろうか

 

絶対も相対も

こうして言葉で誰かと共有した時点で、

概念ではなく個別具体的な瞬間的断面のようなものになってしまう

それは切り出されたレントゲン写真のようなもの

 

時間と共に連続的に存在しているような、

あたかも知覚の束のような自我にそのまま転写することは、

なんだかとても、憚られる

 

とても不思議なのだが、

言葉にすることで、その「伝搬能力」は飛躍的に伸びるのに、

言葉にするからこそ、その「伝達範囲」は破滅的に削ぎ落とされると感じるのだ

 

絶対を論じれば相対のリアリティが増え、

相対を論じれば絶対への撞着が増すのだ

 

だからぼくは、コスパ・タイパの埒外の世界が心地よいのだ。