色鮮やかな知恵と文化、透明な知識と情報
かつて知恵や文化は、言葉や物語によって広がっていった。それらは、それを語る人の中にあった。
やがて文字が発明されると、知恵や文化は石や紙に保存されるようになった。
保存されたそれらは、馬、船、鉄道という移動手段の高速化とともにその伝達速度もまた加速化していった。加速することで、伝達範囲も広範囲になり地球上で同じ知恵や文化を共有できるようになった。
移動手段が通信手段に変わると、もはや人とともに伝達される必要がなくなった。知恵や文化は、電気や電磁波、光といった媒体に単体で乗り込み世界中を駆け巡るようになった。瞬間的に、縦横無尽に。
属人性が剥がれた「知恵や文化」は「知識や情報」になった。
知識や情報はデジタル化され、大量生産、大量消費されるようになった。
そのサイクルの中をスムーズに移動するために、それらはどんどん透明になっていった。
透明だから、その知識や情報を受け取った人には、それらが透明だとは気づかない。
透明だから、その知識や情報を受け取った人は、それが知恵や文化だと思っている。
こうして人は、その透けた向こう側に見える色を見て、それらが知恵や文化の色だ感じるのだ。
属人的な見解や感情に基づいた議論は、客観的な論理構造には適していないと思われている。
だけれども。
こうして歴史を敷衍してみると、不思議な気分になる。
論理的な推論や仮説検証をにより発展してきた科学技術が伝達する情報、
客観的な論理構造を効果的に利用し展開してきた結果の高度な情報化社会。
技術は発展しつづけ、無色透明な情報は常に空気中を満たす。
その情報は、受信された時には着色されている。受信者という属人性を纏って。
不思議な、気分だ。