間と場
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間という文字は「時間や空間の区切り」を表す。
ニュアンスは直感的にわかるけれども。
言葉で説明しようとするとこうも曖昧になるのかと、思う。
でも、こうして同語反復的な説明しかできないということそれ自体が示唆するように、
間とは、言語世界ではその現象を直接掴み取ることのできないのだ。
間とは、その現象に紐づく因果の状態からしか間接的に感じることができないのだ。
「間」という文字は、元来は「閒」と表記したという。
これは構(かまえ)部分を構成する「門」という字画がその領域の形状(門扉)を意味し、
その中に配された「月」という字画がその門扉からこぼれ落ちる月の明かりという情景を表現している。
そして「閒」という文字が意味するのは、月の明かりがこぼれおちるその「すきま」だという。
「すきま」という言葉は、面白い。
なぜなら、「形状」を直接的に表しているわけでもなく、「情景」を具体的に表しているわけでもない。
それなのに、この言葉からははっきりと「現象」が感じられるからだ。
この「すきま」という現象は、どんな概念の物差しで意識するかで認識されるものも変わる。
結果という概念で意識すれば、写真のような「時間の区切り」が認識され、
状態という概念で意識すれば、門扉のこっち側とあっち側という「空間の区切り」が意識されるのだ。
この定常と非定常のゆらぎが無限反復しながら連続している形而上の存在感、
この存在感を抽象概念として実感するときに、
人は「間・閒」を感じるのだと、思う。
場という文字は「祭りのために祓い清めた土地」という意味が成り立ちとしてあるという。
とても具体的だ。
その個別具体的な物理的領域を表現するために生まれた言葉は、
この個別具体的な物理的領域を表現することしかできない。
きっとそれでは使いづらいから、その個別具体的な意味を削ぎ落として、
色々な状況下での物理的領域を表現する言葉になったのだろう。
だから、場という文字は、それ自体では無色透明だ。そこに意味はない。
でも、必ず。
この文字を使うときには、背景としての情景がある。
それが、「間・閒」なのだと、思う。
なぜなら、人が「場」という文字を脳裏に浮かべるときには、
必ずその意識が発現するきっかけの認識があるから。
そう、だから。
間も、場も、相互作用なのだ。
間という抽象、場という具体。
この抽象と具体を行ったり来たりする揺らぎの中で、
人は形而下の場を実体験し、形而上の間を実体感するのだ。
そんなことを考える「間」が、ぼくはずっと好きで。
そんなぼくの抽象概念は、ある知人の一声で、音声配信という具体的な「場」として動き始めた。
まだ始まったばかりの新しい場だけれども、
そこを訪れてくれる人との対話という間は、じわりじわりと心地よい。
間だけでもない、場だけでもない、間と場というゆらぎそのものを楽しむ人が集まってきている。
智に働けども角立たず、情に棹差しても流されず、意地を通しても孤立しない。
とかく、人の世は、面白い。