非対称であること
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「攻防」ついて、定量的に考えてみる。
攻撃をする側、防御する側。
どんなに、パワーバランスが均衡するようなルールをつくろうとも、
どんなに、パワーバランスが均衡するような体制をつくろうとも、
どうやったって、均衡しない。
なぜなら、防御とは100点が前提であり、攻撃とは0点が前提だから。
ほんのわずかな綻びでも、「防御は崩れた」と印象を与え、
ほんのわずかな突破でも、「攻撃が成功した」という印象を与える。
このように定量的に考えると、
減点ベースで考える防御と、加点ベースで考える攻撃という視点は、
「状態の方向性」に注目した概念だと気づく。
今度は、定性的に考えてみる。
そのために、「攻撃」「防御」という名前を外してみる。
名前を外してみると、そこに現れるのは「行為の状態」だけだ。
この状態の変化を表現するには、それらが「どこにあるか」という物差し(新たな名前)が必要になる。
仮に、攻撃と呼ばれていた状態を「A」と名付け、防御と呼ばれていた状態を「B」と名付けてみる。
「防御が崩れた」と感じるような綻びは、Aの状態がわずかに変化しただけであり、
「攻撃が成功した」と感じるような突破は、Bの状態がわずかに変化しただけなのである。
名前を外しただけで、どんなルールも体制もなくても、AとBに不均衡は存在しない。
そこにあるのは、「状態の本質」だけだ。
名前がないとき、ひとはその本質を眺めることができる。
その地平はどこまでいっても均衡状態であり非対称性はない。
けれども。
ひとたび名前をつけると、その地平の均衡はいとも簡単に崩れる。
そこには相対化された優劣という非対称性が生まれる。
モノゴトに名前があることは、とても便利だ。
でも、それと同時に、
モノゴトに名前があることは、とても不便なのだ。
だからぼくは空間を考えるときに、名前をはずしたくなるのだ。
そうして、あるはずのない非対称性をいったん取り外して考えたいのだ。