「ことば」の画素数

たとえば、同時並行で仕事を進めているとき
ぼくは「タスク管理」という視点で思考することができない
「効率的にこなす」という意思が起動しないのだ
その代わり、同時並行で仕事を進めているとき
ぼくの思考からは「時間のものさし」が消える
時間という概念は意識できているけれども、その直線的感覚がなくなるのだ
そうすると、頭の中が「全体」になる
たとえるならば、釜爺だ
頭の中が釜爺になっている
たくさんの薬箱と、何本もの触手が頭の中にあって、なにやら全体的に為されている感じ
それぞれ思考を意識することはできないが、それぞれの思考の全体の存在は感じている状態
もちろん、物理的に同時並行で複数の仕事をしているわけではない
あくまでシングルタスクの連続だ
だけれども、
「次に何をしよう」という段取りを思考した結果でもないし、
「ただなんとなく」取り組んでいるわけでもない
むりやり例えてみると
脳の中に仕事を放り込んで、その脳汁を俯瞰して眺めながら、かき混ぜる
というようなイメージ
同時並行で仕事を進めているとき
ぼくは、全体をかきまぜている
でも、この「全体をかきまぜる」という言葉で表現してしまうと
全体が削ぎ落とされてしまい、表現し得ない
「その思考状態と行為」を説明する言語がないのだ
そんなとき、「なにしているの?」と聞かれると
「ガー」って仕事している
というなんとも画素数の低いことばが、口をついてでてくるのです
説明責任なんてよくいうけれど
言葉で可視化できる情報は
意外と少ないんじゃないかな
言葉は常に言葉足らず
なれど
行間は海、思考は曼荼羅