「信念」か、「コスト」か。

何かを買う時、何かを選択するとき、ひとはメリット、デメリットで判断する。

ともすると、当たり前すぎてこの行為に一切の疑問を持たないかもしれない。

誰だってデメリットを選択したくはない。それは当然。

でも、メリットとデメリットの境界線はどこにあるのだろう? その境界線を判断する基準はどうやって決めるのだろう?

もちろん、「自分が良いと思うかどうか」これに尽きると思う。

もっと強く言えば、自分の信念。ここが判断基準だと言える、究極的には。

では、どうやって「良い」か「そうでないか」を判断しているのだろう?

この判断をするために、僕たちはその対象に付与されている「価値情報」を判断基準にしているんじゃないだろうか?

「保証内容」「生産者」「製造年月日」「使用期限」「仕様」などなど。

これらの価値情報と、それらを入手するための対価として支払う「コスト」を比較して、支払可能なコストという朧げなフレームの中にその価値が収まるかどうかという基準で「良い」か「そうでないか」の判断をすることしばしば、なんじゃないかしら?

そんなことを思いながらふと周りを見渡せば、

ともすれば、その判断の精度を上げるためにあらゆる価値情報を収集することが、かしこい消費と言わんばかりのメディア。

あらゆるモニターにありとあらゆる情報が毎秒毎秒流れていくのを必死で追いかけることを無意識に強いるような社会構造。

ゆっくりじっくり観察してみると、こんな仕組みが透けて見える。

そうやってみると、色々なところにタグ付けされている価値情報というものは

「欲しいものを買う、欲しいものを選ぶ」のではなく「買えるコスト以下のものを買う、選べるコスト以下のものを選ぶ」という行為を助長するためのツールに見えてくる。

そうして、いつのまにかメリットとデメリットの境界線を決定しているのは「モノ自体」ではなく「コスト」になっている。

ここをじっくり見つめて考えてみると、「これが欲しい」という自分の意思による判断、つまり自分の信念だと思っていた基準が果たしてあるのかどうか、とたんに曖昧になってこないだろうか?

そう、そもそも基準なんてない。なぜなら、意思には絶対的な基準なんてないのだから。

だからこそ。

何かを買う時、何かを選択する時には、価値情報だけじゃなくて信念の方にももっと注意を向けてもいいんじゃないかな。

なんてことを、この大消費社会の中でふと思う正月です。