「概念」でものを見る。
ぼくたちは色々な「ものの名前」を知っている。
辞書を引けば、そこに意味が書いてあるから、その名前の意味するものを
ぼくたちは「知識として」知っている。
では、「名前」とはいったい何なのだろう?
目の前にある「それ」とか「あれ」とか「これ」。
これらは代名詞。名詞の代わりの言葉。
これだけだと、その名の通り、名詞の代わりだということ以外、なにも伝えてくれない。
それが一体何のかを知っているのは、話をしている当人だけだ。
だから、人はそこに彩りを添えることにした。それが「形容詞」だ。
「あの冷たくて透明なもの」とか「そこの丸くて赤くて美味しいもの」みたいに。
そんな形容詞をみんなが使うようになって、毎回毎回長々と説明するのが煩わしくなってきたのか、
いつの日かそれらを「水」とか「トマト」とか呼ぶようになった。
これが「名詞」。
彩りの添え方は他にもある。それが「動詞」だ。
「あの早く走る茶色い大きなもの」とか「あの真っ黒くて空を飛ぶもの」みたいに。
いつの日かこれらを「馬」とか「カラス」とか呼ぶようになった。
ここまで読んで、
「いやいや、その表現だけじゃ、水ともトマトとも馬ともカラスとも言えなんじゃない?」
「それだけだと情報が足りなすぎるよ」
と思う人もたくさんいると思う。
そう、まさにその通り。結局、形容詞も動詞も名詞も、どんな言葉も、
そこに存在している「そのもの」をぴたりと表現することはできない。
言葉というのは常に「言葉足らず」なのだ。
ところが。
困ったことに、人は言葉を覚えると「似たようなもの」を同じ言葉で括ってしまう。
例えば、世界が真っ暗になって少したってから段々と世界が明るくなってきて強烈な光が差し込んでくるその状態のことを「朝」という言葉で括る。
そうすると、朝というのはほぼ24時間周期でぼくたちの世界に訪れる現象として括られることになる。
これは、目の前で起こっている現象を、「朝」という概念で見ているに過ぎない。
毎日繰り返されているように感じられる日常も、どれひとつとして同じものはない。
ただ、それらをいちいち観察していると、その観察だけで1日が終わってしまうから、みんな名前をつけてその観察を省略して生きている。
なるべく考えないように、毎日を生きている。
それが「概念」でものを見るということ。