意識を耕して、意味価値を栽培する

 

価値は、どうやって生まれるのだろう

そんなことを考えてみる

 

それはきっと、何か元があるはずで

それはきっと、意識の奥底で発芽を待つ種のようなもの

 

意識を耕すようにほぐしていって

そこに種を蒔くと

意味の芽が出てくる

 

あれやこれやと世話を焼いてるうちに

やがて価値になる

 

 

そんなひとつながりの関係が

意味であり価値なんじゃないかな

だからぼくはそれを

意味価値と呼ぶことにした

 

 

 

関係って、道みたいなもの

でもそれは、最初からある道じゃない

 

関係のようなものと道のようなものが相互に関わり合う中で

関係という道になっていく

 

そんな感じ

 

 

そんな相互の関わり合いの余白があるから

そんな相互の関わり合いに関心をもてるから

関係は生まれる

 

 

そんなふうに関係をもてること

これもまた価値なんじゃないかな

だからぼくはこれを

関係価値と呼ぶことにした

 

 

 

意味価値と関係価値

 

 

言葉の意味だけで考えようとすると

すごく色々なものが削ぎ落ちてしまいそうな言葉

 

 

だけれども

 

価値のための 意味のための 意識

関係のための 関心のための 余白

 

というように

ことばの全体で感じようとすれば

すごく色々なものを含み込んだまま味わえることば

 

 

わかりそうで、わからなそうで

でも

わからなそうで、わかりそうで

 

 

なぞなぞみたいだね

 

でもこのナゼナゼは、なんだかワクワクする

 

 

 

問いは学び 学びは遊び

遊びは余白 余白は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意識を耕して、意味価値を栽培する土壌。

 

こうして、

 

世界中ばらばらに たくさんある断片の

全部がひとつながりに つながるのです

 

 

 

目的地を「見る」のであれば。 どの道を通っても その景色は変わらないけれど

目的地に「行く」のであれば。 どんなふうに道を通ったかで その景色は変わる

 

 

ひとは、自分がみたいと思うものしか   見えない

だけれども

 

意識を耕して 意味価値を栽培するならば

ゆく先の景色は

 

 

絶えず価値を   生み続けるのです

 

 

道と人との 関係 が育ったとき  

  意味は 価値 となるのです